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初登攀物語 NO1

    此の文章は 山岳雑誌 岳人というマニアックな雑誌に
    掲載された インタビュウ記事です、初登攀物語は2年間24人続きましたが
    私がトップバッターでした、編集長には高く評価されていると言うことですか。

復タイトル
谷川岳一ノ倉沢衝立岩正面壁を開拓した
鉄の男

      南 博人さん

〇 人工登攀の頂点に立つクライミング

  

いつもの時代にも、ある種の野心を抱いた若者が憧憬し、
渇仰する目標がある。谷川岳一ノ倉沢の衝立岩正面壁は、
私たち六〇年代前半に岩登りの洗礼を受けた者にとって、
明らかにそうしたものの代表であった_。

と言うより実は日本の最難ルートとして確固たる地位を占め、
其れを登る事は、一流クライマーの名誉を手にすることであった。

 そうした思い込みの虚しさと危険を指摘することは今はやさしい。
しかし其れは後の時代なればこそ説得力を持ち得るのであって、
あの時代には血気に逸る若者の疾走を止めるには殆ど力を持たなかった。

 私も若き日々、次々と立ちはだかるオーバーハングを越え、衝立岩の
頭に立つ己を、どれほど夢見たことだろう。
だから、この日本最難最高の岩壁を初登した、東京雲綾会の南博人の名は
私にとってまさに鬼神の響きを持つものだった。

南博人は一九三一年、サッポロ市に生まれた。山に魅せられるようになったのは、
父に連れられてムイネシリに登ってからである。彼はこの時の感激を今も目を輝かせてかたる。
「一面のハイマツの海と広大な空間、こりゃ凄げえとおもったね。男のやることだと」

 旧制の札幌商業で体操をしていた南は、其処で山岳部を創立。五年で卒業するまで
北海道の山々を登りまくった。その中には早くも密かに初登かもしれぬと自負する天狗岳
東尾根の記録があり、後の南の天分はこの札幌時代に既に見られるのである。

  三男坊の彼は札商卒業と同時に上京、西丹沢の滝場でまだ人が登っていないという
噂のあるものに触手をのばした。そして、その過程で東京緑山岳会の幹部、吉野幸作と
知り合い、南もその一員と成った。しかしそれから間もない一九五〇年、吉野は新しい

理念のもとに緑山岳会からわかれ、東京雲綾会を創立、南もそれに従って雲綾会の中核となった。
 それからの南の活躍は凄まじい。主な初登攀の記録だけでも一九五八年二月二三~二四日、
谷川岳一の倉沢南綾。三月二一日二五日、槍ヶ岳東綾。五九年四月二〇日~二五日、

穂高、屏風岩東壁。八月一五日~一六日、谷川岳一ノ倉沢衝立正面壁。
六〇年二月一四日~一九日、同冬季。三月三〇日~四月三日、八つヶ岳大同心正面壁。
六一年五月一四日~一六日、谷川岳幕岩Cフェイス正面壁。六七年五月三日~六日、穂高

屏風岩東壁ルンゼ~北尾根四峰ダイレクトルートとなる。この間六〇年一〇月衝立岩とコップ
正面の連続登攀をやり、その下降ルートを発見している。

「連続登攀は一一月で 下降ルート発見が一〇月です」追加説明です。

これらはいずれも当時第一線の鮮鋭クライマーが虎視眈々と狙っていたルートで有り岩壁の

初登である。中でも衝立岩、屏風岩東壁、大同心正面は単なる新ルートではなく、一つの
岩壁事態の初登なのである。
 特に衝立岩は、雲表クラブと緑山岳会が同日に初登して話題を蒔いた。隣のコップ状岩壁正面壁初登の折りに
使用された埋め込みボルトによる人工登攀の、到達すべき頂点であり限界を示す登攀であり、その後20年間に
わたってなされなかったと言う、折り紙つきの登攀であった。

又南は当時では画期的な大きさであったコップ正面緑ルートのオーバーハングの出口に最初に顔を出した男でも有る。正に埋め込みボルトによる人工登攀の旗手であり権化と呼ぶにふさわしい、鉄の男だったのである。

初冬の風がが喧噪の街を吹き抜ける渋谷に南を訪ねた。私にとって余りにも<鉄人>の印象が強い彼は、何故か華やかなギャルの街に在って少しも違和感が無く、むしろ若若しさの中に見事にとけ込んでいた。
 第二次RCC全盛時に、一人雲綾会の南として孤塁を守り、彼らに伍して一歩も譲らぬ堂々たる記録を残した
南博人。彼は又ユニークなアイデア、マンでもある。

例えばRCC形の埋め込みボルトに対し、リングボルトを考案したのも彼なら、腰縄の代わりに安全ベルトを使い出したのもそう。そしてナイロン製のショウトスパッツを作ったのも彼のオリジナルなら、衝立岩で、ハンモックを使用
したのも南だった。

 こうした数々の創造は、やはり新しい困難に立ち向かう為の凝縮されたもので、そうしたクライマーとしての魂は
三洋スポーツの経営者となった今も衰えを見せず、今又抜群の効果の防水液<PBH>というオリジナル商品を発売している。

一九三一年生まれの南は、一般的にはもう熟年なのだが、八三年には一ノ倉沢二ノ沢右俣を攀じり、八四年の正月は剣岳の山頂で迎えている。
 埋め込みボルトが実用化されてわずかに一年、其れを使った人工登攀としては以後二十有余年、其のレベルを
越えられぬ一つの頂点を極めてしまった男は、今、若者の街・渋谷の一角に構えた登山用具店の店頭から、その鋭い眼光で、二十一世紀の山とクライミングを目指しているのかも知れない。


この記事は私に取って 大内尚樹さんの最高の文美化表現で在ります、記念すべきシリーズのトップバッターに取り扱って もらった 編集長の西山さんに高く評価された者と信じています  

その後現在のクライマーの中には
「衝立なんか今では二時間半だよ」、、、なんかを付けられる見下げた言い回しをされる事も有りますが

私は この記事の高さを 思い出として 自信を取り戻すわけです、誰になんと言われようが 私には此の記事
が有り 西山さんさえ理解してくれていれば と思うんです。

専門的なマニアックな本の特集だけに 理解しにくいかも知れませんが最後までお読み頂き有難う御座いました。
なぜ私にとって掛け替えの無い本かお解り頂けたら 嬉しいです。

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