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ガマと狸と自己脱出

    山と渓谷社 掲載文ー1
G山想寺倉さんからのタイピング貼り付けです 1度其の前に 山渓に掲載されたエッセイです
長いので 二つに分けて出しますちなみにG山想は500部の同人誌です、この時に
小川山の絵2枚の 取材をしたんです、半抽象画はこの時の狸からの裏に降りる50メイトル懸垂下降
の途中からの 風景?です。

     「ガマと狸と自己脱出」

南  博 人
(東京雲稜会)
入会まもない女の子に惨敗

八十人ほどのメンバーが所属しているOYG(親父会)という大きな山ヤのグループがあり、年に二回ほど飲み会が開かれている。この飲み会で、二〇〇〇年の冬に谷川岳一の倉沢滝沢リッジで亡くなった吉尾弘君の事故のことがよく話題になる。吉尾君は三月十三日の夕方六時過ぎ、ドーム基部からAルンゼへ約二〇㍍滑落してロープに宙づりになったが、自己脱出できずに命を落としたのだった。

はたして僕が吉尾君の立場だったらどうなっただろうか。岩場で宙吊りになったところから自己脱出した経験といったら、五十九年八月に一の倉沢衝立岩正面岩壁を初登したときしか思い当たらない。
このときは僕のパートナーだった藤芳泰君が落ちて宙吊りになった。これは彼のミスではなく、夜なのに私がハーケンの回収を頼んだためのアクシデントだった。
僕にとっても彼にとっても初めての経験だったし、おまけに夜だったこともあって、脱出は困難を極めた。まして上にいた僕が行なっていたのはグリップビレイである。加重のかかったロープは、引かれこそすれ、どんなに力を入れて引っ張っても、引き上げることはただの一㌢もできなかった。そのときはダブルのロープにそれぞれ一本ずつアブミをセットして交互に引くという方法をとっさに思いつき、長時間かけて十六、七メートルの高さを引っぱり上げ、なんとか窮地を脱することができた。
この経験を通し、岩場でぶら下がった状態の人間を引き上げるのは不可能に近いということを思い知った。幸か不幸か、自己脱出の必要に迫られる状況に陥ったことは、その後ずっとなかったのだが・・・。

だから飲み会のときに吉尾君の話が出ても、自分でやってもいないことを批判はできないから、いつも聞き役に回っていた。しかし、「人の振り見て我が振り直せ」という話もある。人の能書きばかり聞くのにも飽き飽きしていたし、吉尾君の技術が未熟だったとは思えなかった。
そこで、吉尾君の死にはなにかほかに原因があるのではないかと考え、とにかく自分たちで一度自己脱出の実験をしてみることにした。
もっとも、吉尾君の場合は厳冬期の夜、本番の岩場での出来事である。実験するとはいっても、その条件を再現するのはあまりにも無謀なので、なにはともあれゲレンでやってみることにした。ゲレンデでできなければ、もちろん本番でできるはずはない。
場所は三ツ峠のV字下のオーバーハング。若い現役の悉知藤也君を指南役に、いつも持ち歩いている器具のみを使い、まる一日かけて数人で自己脱出のノウハウをあれこれ試してみた。

結果はいかに?新しく入会してきた女の子は、やり方を習っただけで「私には合っているみたい」などと言いながら余裕ですいすい上がっていった。僕より若いもうひとりのОBである鈴木博一君と現役の岡本徹也君は、「こんなことは今までやったことがない」とボヤきつつ、息を上げながらも十メートルほど上がった。まあ合格だろう。
ところが、僕はといえば三メートルがやっと。腕も腰も疲れきってしまい、まったくおはなしにもならない。やる前からある程度、予想はしていたが、最悪である。もし僕が吉尾君の立場だったら、やっぱり間違いなく死んでいた。
僕の息の上がり具合を見て、悉知君は「南さんももう歳だなあ」ぐらいに思っていたのだろう「その歳で挑戦しようとすることが尊いんですよ」と慰めてくれた。それをいいことに、僕も惨敗を年齢のせいにすることにした。
「これでも若いときは登れたんだがなー」
「それはそうですよ。南さんがトップの岩ヤだったことはだれでも認めていますよ」
 
僕は所属する東京雲稜会の集会でこの惨敗を報告した。その話を聞いて、あるОBは「もうそんなことはするなということじゃないの」と言い、またあるОBは「いや、きっとおぬしは解決の道を探すだろう」と言った。
 僕は考えた。女の子にも負けたのだ。「入会間もない」女の子、なのだ。なにかが違う。
 それが気になり、あるとき、集会の帰りによく立ち寄る飲み屋で彼女と腕相撲をしてみたら、思ったより腕力があるので驚いた。では、体重の違いだけであれだけの差がつくということなのだろうか。
 その年のОYGの飲み会でも、この惨敗について話をした。いろいろな人がいろいろなやり方をあーだこーだと教えてくれ、私はそれにふむふむと相づちを打ち続けた。

[ウエストベルトの位置で分かれる明暗 ]

 考えたり諦めたりを繰り返しながら一年が過ぎた。が、どうしてもあきらめきれず、翌年の春、二度目のテストを行うために日和田山へと出かけていった。
 今度は少しズルをしようと思い、ハーネスのウエストベルトをいつもより二〇㌢ほど高い位置、腰の上あたりのところで締めた。
 昨年の三ツ峠での惨敗のいちばんの原因はすぐに腕が疲れてしまうことだった。というのも、ロープにぶら下がったときに体がひっくり返らないように必死でロープにしがみつく一方、自己脱出のロープ操作(メインロープにシュリンゲをブルージックで結び付けること)も行わなければならないからだ。これではいくら腕力があってもすぐに力尽きてしまう。
だったら重心を高くして、ぶら下がったときに体がひっくり返らないようにすれば、ロープにしがみつく必要もないので腕は楽になるだろう。腕さえ疲れなければどうにかなるに違いないと考えたのだ。

 読みはみごとに的中した。ウエストベルトの位置を上げると体がひっくり返らず、立ったような状態のままロープにぶら下がっていられるのだ。これならば苦労して岩やロープにしがみついている必要もなく、ブルージックの操作が容易にできる。あとは足を岩に突っ張らせながら、ブルージックにつないだシュリンゲをアブミにして、ずらして上にあがっていくだけ。このときは五メートルほどのハングで練習したのだが、何度も繰り返すうちにだんだんと慣れてきてラクにできるようになった。
 
ウエストベルトの位置を変えただけで、これほど差が出るとは。僕を教えてくれていた悉知君も、ウエストベルトの高さの違いがカギであることに気づいていなかったようだ。
 四十年前の僕たちは、ウエストベルトの位置は低ければ低いほど岩登りには都合がいいと考えていた。おそらく吉尾君も同じ考えだったろうと思う。
 なぜかというと、僕たちがやってきた岩登りは、今のフリークライミングとは違って、ハーケンを打ちながら登っていくものだったからだ。ハーケンがうまく打てるか打てないかによって登れるか登れないかが決まるといってもよく、うまく打つにはなにをどうすればいいか、いろいろ考えた。
 
たとえばハーケンを連打しながら登っていくときには、前に打ったハーケンからより遠くに手が伸びたほうが、より高いところに次のハーケンを打つことができる。この、ハーケンとハーケンの距離が、他者との明暗を分けることになる。では、ハーケンをできるだけ遠くに打つためにはどうしたらいいか。そのテクニックのひとつがウエストベルトを低い位置で締めることだった。
 ハーケンを打ちながら人工的手段を使って登っていく岩登りの場合、最後に打ったハーケンを支点にして次のハーケンを打つことになる。その際には、支点となるウエストベルトの位置が体の下のほうにあったほうが、たとえ重心が下がったとしても、より高いところにハーケンを打てるので断然有利である。もしウエストベルトの位置が高ければ、そのぶんだけ体は上に上がらず、次に打つハーケンの位置も低くなってしまう。たかが二〇センチの違いだったが、それが登攀の成否を左右したのだ。
 このことは、横のほうにあるリスを探すときにもたいへん有利だった。ハーケンを支点にして指先が届く扇状の範囲が大きければ大きいほど、リスを探しやすいからだ。
 
ウエストベルトの位置を低くするというのは、僕たちがもっとも得意とした技術のうちのひとつである。この二〇㌢の差が、僕たちの勝利につながっていた。  
当時、もし今のようにハーネスのウエストベルトの位置が腰の高いところにあったのなら、まったく話にならなかっただろう。初登攀はおろか、岩登りさえろくにできなかったはずである。だから重心は低くて当たり前、登攀中に体がひっくり返りそうになってしまうのは当然だったし、まして自己脱出のことなんて毛頭考えていなかった。

屏風とコップの後日談
今年になって、自分のホームページを立ち上げた。
http://hirochan373.cocolog-nifty.com/hirocha
その掲示板に、「南さんが拓いたルートは、ハーケンが遠くてマイった」という書き込みがある。僕はそれほど背が高いほうではないが、同じような話は、今まで何人もの人から聞かされてきた。
話はちょっと横にそれるが、前穂高屏風岩東壁雲稜ルートを第三登した人が、第二登者に電話をして「核心部で二本のボルトが見つからなかった」と伝えたら、「抜けたんじゃないの」と言われて納得したという話が、ある山岳会の会報に載っていた。しかし、このルートを初登した僕に言わせれば、これほどバカげた話はない。雲表倶楽部の松本龍雄さんだって「抜けたのなら穴があるはず」と言っていた。
申し訳ないが、僕たちはそこにハーケンを打っていない。打ったのは、その右横のほう。つまりいったん右に逃げてから、上でまたもとのラインにもどったのである。そのハーケンが遠すぎたために、わからなかったのだ。まさかそんなところに打っているとは思わなかったのだろう。これなどはまさにウエストベルトの位置を下げていたからこそできたことだ。
僕たちが屏風岩東壁を初登した時に、核心部の上のテラスに縄梯子をかけた。第二登者はこれを使って登っていったのだが、次に登ってくる者にひと泡吹かせようとでも思ったのだろうか、登ったあとに梯子を切り落としてしまった。
第三登者はそれにみごとにはめられてしまったというしだい。前述の会報には「これは天狗様でも登れない」とも書いてあったが、ならば僕たちは天狗様より上をいったことになる。

同様の話をもうひとつ。最近になって、僕たちが第二登した一の倉沢のコップ状岩壁正面壁について「実は南たちはコップを登っていないのではないか」と言われたことがあった。これは僕の憶測だが、僕たちの次に登った第三登者が、そこに打たれているはずのボルトやハーケンを見つけられずに「おかしい」と言い出したのではないだろうか。
コップ状岩壁正面壁には緑ルートと雲表ルートの二本があり、初登は同じ五十八年六月二十一日になされている。このとき、先にテラスに達した雲表倶楽部のパーティが、すぐ下で苦闘していた緑山岳会のパーティにロープを投げて助けたというエピソードがある。要するに、緑ルートの初登者は上からザイルで助けられて登っているのだから、そもそもはじめからボルトやハーケンは打たれていない。
第二登者の僕たちの場合も、ボルトやハーケンが見当たらなかったため、ハーケンのないところの四メートルほどは緑ルートの正面からの突破はあっさりとあきらめ、右の雲表ルートを登るつもりで右下へトラバースしていった。その途中でギリギリ体を伸ばして上をさぐってみたらリスが見つかったので、トラバースをやめて何本かのハーケンを打ち、緑ルートと雲表ルートの間を登っていったのである。
これもまた、ウエストベルトの位置の低さがもたらした成果といえよう。
第三者に「ほんとうは登っていないのではないか」と疑われるということは、裏を返せばそれだけ僕たちの勝利の大きさを立証していることである。コップ状岩壁は第二登だったが、僕は自分たちの勝ちであると勝手に信じている。もともと大ハングの乗っ越し自体は私が四月に成功しているので、そのためコップ初登攀争いの火付けになったところであった。

今、一の倉沢の衝立岩を眺めると、かなりの数の捨て縄やヌンチャクが残されているのが見える。もちろんすべてを同じ人が残したのではないだろうが、回収すらできないのだろうか。僕はハーケン以外なにも残していない。屏風岩東壁雲稜ルートのときには十メートルの縄梯子を残したが、それは回収の余裕がなかったのではない。
僕たちが初登を狙うときには、なにもないところにハーケンを打ち込みながらルートを拓いていったのである。残置のハーケンや残置のヌンチャク、シュリンゲを使って登り、「いや大変だった」と言っている人とは、どだい〝大変さ〟が違う。
このことをもってして、今の岩ヤさんが当時の僕にはまだ及ばないと思ってしまうのは、はたして傲りだろうか。僕ももう七十三歳である。これぐらいエバッておいてもバチは当たらないだろう。
何年か前、僕の友人がヨーロッパで日本人の若いクライマーに「南博人?過去の人ですね」と言われ、ひどく憤慨していたことがあった。それから二年後、共同通信の配信による「時の人」というコラムに、僕のことが紹介され、〝過去の人〟がいきなり〝時の人〟になってしまった。その若いクライマーに記事を読ませたかったものである。

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