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今年は後二日になりました

夏にクーラーが壊れて、水が漏れ 本が濡れてしまいました、その中に岳人2001年の1月JANUARY NO、643
と言う本が有りました 、この本は1900年から2000年の間の100年間に もっとも影響が有った人たちという規格があって 

其処に私が 岩壁登攀の部で 選ばれて?います、大事な本でした、100年間に一人ですぜ。
それがこの本です、マニアックな岳人の「編集長に選ばれた」と同じです、写真の本の142ページです、

所が新田次郎の「神々に岩壁」にすでに「何百年に一人しか出ない」、、、、、と有りますので新田さんの感覚と
岳人編集長の感覚が同じ感じ方で私を捕らえている、と言うことです。さて
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本をお持ちでない方もいると思いますので少し長くなりますが 覗いてみましょう。
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文章は福島さんです。
 一ノ倉沢衝立岩正面岩壁ーこの岩壁ほど登攀不可能といわれ続けてきた壁は他にないだろう。そしてまた、
これほど人目をひく、目立つ位置にある岩壁も少ない。一の倉沢の出会いに立つと、垂直にそそり立つこの壁は、全てのクライマーの目にとまるといっていい。似もかかわらず、一ノ倉沢にクライマーが入るようになってから二十数年間、一、二の例外を除いて、衝立岩に手を触れたものはいなかった。理由は簡単、オーバーハングを
連ねてせり上がるこの岩壁は、どう見ても人力で登攀可能とは思えなかったからだ。

  一九五〇年代後半、戦後派の若いクライマーの台頭によって、岩壁登攀の可能性は次第に広大されていった。とりわけ、ハーケン連だによる連続吊り上げ、ダブルロープ、アブミ技術と言った人工登攀技術の発達は、
登攀対象の幅を大きく広げた。そして五八年六月、一の倉沢コップ状岩壁正面が、埋め込みボルトを使って雲表
クラブと緑山岳会によって登られたことは、岩登りの新時代の到来を強烈に印象づけた。

 ハーケンを打ち込むリスさえあれば登れるーこれが人工登攀技術を会得した新世代のクライミング感覚だった。
其処に僅かな割れ目もない岩壁も登攀可能にする埋め込みボルトが登場することによって、飛躍的に登攀の限界が広大されるに違いないと言う確信が生まれたのも当然だった。コップの次は衝立、その流れは必然だった。

 五八年九月、先ず衝立正面に攻撃をかけたのは第二次RCCの芳野満彦、原田輝一、小板橋撤だった。しかし
、彼らは、大量の登攀用具を持ち込みながら、二日間で基部からわずか四〇メートルしか獲得出来ず、あっさり撃退された。芳野は一年後の「山と渓谷」五九年九月に「垂直を越えても」と言う一文を寄せ、「正面壁をダイレクトに直登すれば、おそらくエキスパンションボルト数百本を使用し、十日から一ヶ月近くのビバーク(日数)を費やさなく

ては成らぬ」「此の岩壁を登るには、上役に色目を使って土曜日か月曜日に休みをいただいて、日曜と抱き合わせで二日か三日登って帰ってくるようななまぬるい作業をやっていたたのでは毎週通っても一年はたっぷり掛るだろう」と書いた。
 なお、この芳野の「垂直を越えても」は「十年後の衝立岩」という次々と新兵器が登城するSF登攀記が付された実にケッサクな文章である。遠藤甲太が「山と渓谷」二千年二月号に連載「登山史の落とし物」でくわしく紹介しているので、目を通されることをおすすめする。
これは衝立岩の度はずれた難しさに衝撃を受けた芳野だけの見方ではなかった。「岩と雪」第二号の特集「谷川岳研究」で、コップ正面の初登をかちえた雲表クラブ「筆者はたぶん松本龍雄」はこう書いている。「これ(衝立岩)は今でも如何なる手段にたよっても登れる可能性が有るとは思えない。・・・・・吊り上げ、アブミ、ハーケン、梯子、そして埋め込みボルト、滑車等々の現在使用されている、されたことのある用具をすべて使ってみた所で、それは否としか答えは出ない」「然し現在のー伝いかえれば過去の方法によっては、やはり困難以上のものである。埋め込みボルトも此処では無力に近い。何か飛躍的な転換をもたらすものが、此の登攀に与えられ無ければなるまい」
 ところが、芳野が「一〇年かかる」と断定した衝立岩は、なんと芳野が書いた文章が載った「山と渓谷」の発売と殆ど同時に、五九年八月ほぼ中央部を3ビバークで完登されてしまった。初登攀者は東京雲綾会の南博人。
藤 芳泰(よしやす)、これが現在の雲綾第一ルートである。
衝立岩正面初登攀の功をリーダーを勤めた南一人に帰するのは、パートナーの藤、および初登に先立つ四回の試登で第一ハングを突破した東京雲綾会の面々に失礼だろう。しかし、此の登攀の内容を知れば知るほど、南の
異能異才がはたした役割の大きさを感じざるを得ない。というのは、此の成功をもたらしたのは、芳野が予想したような無制限の物資と労力の投入でも、松本が考えたような画期的な発想の転換でもなく、絶妙のルートファインデイングとハーケン技術という、いわばオーソドックスなクライミング技術の冴えだったからだ。此処に南の天才的な岩を見る目を感じ取れるのである。

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南・藤パーテイのアタック開始は五九年八月一五日。用意した登攀具はハーケン二〇ポン、ボルト八〇本(以下ハーケンボルト数は概数)アブミ数台ザイル三本それにビバーク用としてハンモックを加えた。オーバーハングしてテラスにともしいこの岩壁でハンモックを用いてビバークし、一気に完登するというのが南の戦術だった。
 ボルトを大量に用意したのは、彼らがこの年の五月に穂高屏風岩東壁をボルトを使って初登攀した経験と、ボルトという新兵器の威力を存分に発揮して見たいという気持ちからだろう。
 第一ハングは事前のルート工作によって快調に越え、上部を目指す。第一ハングから二〇メイトルほどルートを伸ばしてハーケンを打ち、ハンモックを吊るしてビバーク、ハング下に吊したハンモックの寝心地は快適だった。一六日、第二ハングを突破するが、三日月ハングしたで、セカンドでハーケンを回収しながら登っていた藤が、アブミを掛けたハーケンが抜け、宙づりになる。二本のザイルに交互にアブミを掛け、南が一本ずつたぐり寄せると言う苦しい脱出作業を夕方から夜に掛けて続け、藤が南のいる外傾バンドに登りついた時は午後一〇時に成っていた。
一七日、三日月ハングを右に見ながら左上し、第三ハングを越えて洞窟に入る。ようやく手足を伸ばしてビバーク。
此処で二人に思わぬ恵みがあった。洞窟の庇から水滴が落ちていたのである。現代のルート開拓では考えられないことだが、南の記憶によれば、水は二リットルしかもっていかなかった。水の得られない夏の岩壁でハンマーを振っていては、当然たりない。二日目で飲み尽くし、この日は全くの水無しの行動だった。藤の書いた登攀記によれば 、南は血の唾をはいたという。
一八日、洞窟の天井を乗っ越し、ブッシュ混じりの岩場を登って、衝立の頭に飛び出したのは午後一時だった。
 さて芳野や松本が不可能と断じた衝立岩正面壁を可能にしたのは南の絶妙なルートファインデイングとハーケン
技術だった、と書いた。現在も元気で東京雲綾会の会長を務めている南に聞いたところ、第一ハングの上で使用したボルトは四本、内二本はビレイポイント用だという、藤が「山と渓谷」五九年一〇月号に書いた記録と照合すると、前進用ボルトは多くて五本、第一ハングの突破に使われたボルト五本と合わせると、一〇本足らずのボルトでこの岩壁は登られたことになる。当然ボルトは大量に余り、逆にハーケンは全くたりず、二日目に下から補給し、更にトップが打ったハーケンをセカンドが回収しながら登っている。数百本のボルトを要するという芳野の予想との
違いに驚かされる。
 しかし完成したラインは、ハングを次々と越えて岩壁の中央部を突破する攻撃的な物だ。南は「僕は岩壁の初登攀を狙うとき、仮に岩壁を縦に三等分したとして、その中央部の幅で登る、それじゃないと、端っこのほうを登ったんじゃ、後から真ん中を登ったやつに正面初登と言われちゃう。それじゃ面白くない」といっている。

 ヨセミテのエル・キャピタンでは、一二五本のボルトを要した初登ルートのノーズに対して、ロイヤル・ロビンスらが一三本しかボルトを打たずに登ったサラテ・ルートは、偉大な業績と賞讃されている。歴史、環境、岩質、の違う
ヨセミテと一の倉沢を比較することは出来ないが、ロイヤル・ロビンスを現代的クライミングの創始者の一人として英雄視するなら、南博人も偉大な岩の達人として経緯を表されてしかるべきではなかろうか。
 また、ヨセミテで発達した技術を継承した現代のエイド技術と一九五〇年代の日本の人工登攀技術とは異質であるとはいえ、日本のビックウオール・クライマーが、かって日本にも高度な水準に達していたハーケン技術が存在した事を知らぬふりをするのはおかしなことだ。
  衝立岩正面壁雲綾第一ルートは、岩壁登攀に新時代をもたらした画期的なものであったと同時に我々に装備も金も時間も無い時代に、四〇年前のクライマーが、如何に腕を磨いて素晴らしい登攀をしていたかを、現存するルートという形で具体的に教えてくれる歴史的財産ではないか。
(文中継承略)
(南博人氏には取材に快く協力して頂いた。厚く御礼申し上げます)

まこんな所です、「外国の人と比較しても偉大な岩の達人」と言われても良いのではないか?ここのところを読んでください、嬉しいことです。

 正月過ぎ 四日から舞子高原に孫とスキーに行く予定でいます。
岩登りは可成り自分でも駄目に思いますが スキーは 今カービングスキーを(大回転スキー)取り入れて頑張っています、どのくらい頑張っているかこれは昭和山岳会の樽木さんに聞けば分ります昨年12月に1日いしょに滑りましたので、昨年の彼の滑りはカービングスキーでは無いようでしたので、「課題が残った」としきりにぼやいてましたから。と言っても 昨シーズンは不覚を取りましたが、此の一二月のハンターマウンテンの初滑りは昼から吹雪きましたが快適でした。
スキーは七十六才でも これからですね、一月はニセコの予定もあります 怪我をしたところも見てきます。
また本等を出します。
良いお年を。

 

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